【映画】アーロと少年

 観客を千尋の谷ならぬ「いたたまれなさ」の底に突き落とす映画だった。


 主人公である恐竜の子アーロが生きているのは、もし1600万年前隕石が地球に落ちず恐竜が繁栄を続けていたらというパラレルワールドである。


 そこで恐竜は人間に成り代わるかのように言語を操り、農耕をし、家畜を飼って暮らす。動物を擬人化するのはアニメやマンガでよくある手法だ。しかしこの映画では進化の過程で恐竜が人間よろしく言語や文明を築いていったなら、という現実にあり得たかもしれないifの世界を描いている。


 対して、この世界の人間は、映画を見る限り狼のように吠えるばかりで言語を獲得しているようには見えない。ただ、後にアーロの相棒になる人間の子、スポットが棒を家族、砂に描いた丸を家に見立てた象徴を理解したところから、抽象化の能力はありそうだ。じきに彼らも言語を獲得し、現代の人間につながる進化をしていくことだろう。


 物語は兄弟の中でも身体が小さく気の弱い恐竜の子アーロを父親が鼓舞するところから展開する。アーロは父親に命令されたとおり、農作物を盗む少年スポットを捕らえようとするが失敗。激昂した父親はアーロを連れて過酷な自然のなかスポットを追う。が、そこでニ体は氾濫した川の濁流に襲われる。
 そして父親は「アーロを助けて」「アーロの目の前で」「アーロの眼を見つめながら」濁流に呑まれ、絶命する。


 テレビで多くの津波映像を見た後にこのシーンを突きつけられるのは、正直辛いものがあった。


 実際この映画で描かれる自然は、空恐ろしく得体が知れない。
 アニメにおいて現実にあるものを描くとき、私たちは多々それが持つある特徴を誇張、デフォルメする。それはたとえば極端に眼の大きい女の子であったり、装飾過剰な武器や露出過剰な防具になったりする。


 この映画でデフォルメされているのは、「自然」である。そこで抽出される要素はそれが持つ「残酷さ」と「美しさ」である。この極端な両要素を、この映画は過剰なまでに発達したCG技術を駆使して時には父を呑み込む濁流で、時には美しい蛍群で、グロテスクな虫で、嵐で、鳥の群で、私たちに押しつける。それが、大人子供問わず不安にさせる。


 だが、この理不尽さこそが、文明人になった私たちが忘れかけているものではないだろうか。奇しくも21世紀の超絶クオリティのCGアニメーションによって、今私たちは祖先たる原始人の畏怖を再体験しているというと言い過ぎだろうか。


 そういう意味で、この映画はリアルよりリアルだ。文明でしつらえた安全と言う名の幻想を、アニメという別種の幻想がはいでいく。


 最後に。この映画は、アーロが恐竜の家族のもとに、スポットは人間の家族に受け入れられて終わる。ふたりは、幾多の苦難を越え、助け合い、友情を築きながらも最後には別れることを選んだ。


 繰り返しになるが、この映画は恐竜が絶滅をしないまま知性を手に入れたifの世界の話だ。このままこの世界の歴史はどんな変遷を辿るのか想像してみて欲しい。


 高確率で、人間と恐竜の殺し合いが発生するのではないだろうか。肉体的にも知性の面でも先んじている恐竜が人間を皆殺しにして終わりか、人間の文明が急な成長曲線を描き、恐竜を絶滅させるか。どちらかがどちらかを家畜か奴隷にする未来もあるかもしれない。とにかく、手に手を取り合って仲良くとはいかないこと容易に想像できる。


 そういう意味で二人の別離もまた、自然の残酷な面の一例として描かれたのかも知れない。

 

 だが、二人の前途は、互いに出会うことで確かに変わった。


 ピクサー作品としてはあまり話題にならない映画だが、どうか大スクリーンで楽しんで欲しい。