キャロル【映画感想】

 私たちを恋に陥れてくれる、なんとも美しい映画だった。
 見終わった後に、妙な高揚感とセンチメンタルを感じてしまう。これぞまさに恋愛映画だ。


 舞台は1950年代のニューヨーク。百貨店で働く可愛らしい女の子テレーズは、客であるブロンド美女、キャロルに出会う。ここでキャロルは、テレーズとまた会う口実のためあえて手袋を売場に忘れる。

 これは古典的ではあるが、相手もまた自分に少なからず興味を持っているという確信がなければ出来ない傲慢な行為である。この自信家で傲慢なところもまた彼女の魅力だ。自身の美しさをよくよく知っている女性だ。
 

 狙いどおりテレーズと近づきになったキャロルは、カメラマン志望のテレーズにカメラ一式をプレゼントする。この時の、キャロルのカメラが入ったトランクを脚で滑らせるハイクラスの人間が間違ってもしないような仕草が言いようもなく魅力的だ。この時キャロルはちょうど、旦那と円満に離婚しようと奮闘していた。


 ところでこの映画では、キャロルの夫しかり、テレーズの彼氏しかり、男性は女性同士で想い合ったキャロルとテレーズにはまったく無理解で障壁になる存在として描かれている。しかしそれは仕方ない。二人とも、同性愛が精神疾患扱いだった当時のアメリカにおける男性としては真っ当な存在なのだ。ことにキャロルの夫は、連れ添って子までなした妻が同性愛者で、この十年間自分の側でただ耐えてきただけだという事実を突きつけられ苦悶している。彼がキャロルにやり直そうと迫るシーンは本当にもの悲しい。彼はキャロルが憎いわけでもなく、きっと格別にホモファビアなわけでもない。ただ、愛する妻と娘とともに、幸福な家庭を築いていきたかっただけなのだ。
 

 なのにキャロルは、新たに見つけた可愛い恋人候補テレーズを家に引き込む。激昂した夫は、共同で持つはずだった娘の親権を取り上げようとする。途方にくれたキャロルは、テレーズにともに旅に出ないかと持ちかける。いかにも思慮浅い提案に思えるが、娘を取り上げられ悲嘆にくれる彼女はいや美しい。当然テレーズは快諾、トランクに荷物を詰め込み、二人車に乗り込んでただ道を行く。時間制限ありの刹那的な逃避行だ。


 途中プレゼント交換をしたり、モーテルで化粧品や香水を試しあったりして二人は幸福に過ごす。そして新年の日、ウォータールーのホテルで、キャロルはテレーズの前で自身のローブの紐をほどく。ここでようやく、彼女らは体を重ねるのだ。


 しかし、この行為を夫が雇った探偵に嗅ぎつかれてしまう。二人の愛はどんなクライマックスを迎えるのか。それは劇場かDVDで確認して欲しい。ラストのキャロルの表情が、全てを語っている。
 

きっと同性愛者に限らず、マイノリティが個を通して生きるにはリスクがつきものなのだ。そして、この世に生きる私たちは皆何らかにおいて必ずマイノリティだ。
 

 1950年代の女性ながら、最後は自立し、職業を持つキャロルやテレーズの生き方は、そんな私たちに力をくれる。


 キャロルが言うように、「自分らしく生きれなくてはこの世は地獄」なのだ。