愛を乞うひと 著:下田治美

乞うとは何か。相当に追いつめられた人が、生きるため自分を貶めてでも相手にねだる行為だと私は定義する。


 乞うものは、なにも金銭や食物だけとは限らない。この物語で、主人公が乞うていたのはタイトル通り、愛だ。もしも乞う相手が恋いうる人、すなわち他人ならば一種の悲恋物語として美談にもできよう。しかし、それが親なら、どうだろう。悲劇、いや悲惨ともいえる様相を呈してくる。そしてそんな物語じは、現実として今もどこかで起こっている。


 主人公は、高校生の娘をもつ中年女性である。彼女は幼少期に優しい父を亡くし、施設で穏やかに暮らしていたところを実の母に迎えられた。そして母と、母の浮気相手であった義父と弟との暮らしが始まる。ささいなことがきっかけで母のせっかんがはじまる。小学生になるかならないかの主人公の身体を自分の気分で殴り、ぶち、暴言を吐く。


 悪いことをしたら怒られるのはわかる。ただ、この種の人間は何が怒りに触れるかわからない。いや、何でも激昂するタネにしたてあげてしまうというのが正しいか。
 悲しいかな、こういう人間は生きていれば一定の確率で会う。もちろん本人も、そんな気性にでもならないと生き抜けないような背景があったのだろう。往々にして、そのような鬱憤は無垢で無抵抗の者にむかってぶちまけられる。子どもはかっこうのハンドバックだ。


 それでも、子どもは親の歓心を買おうと奮闘する。親の行為の片隅に、自分への愛情の片鱗でも見えないかと目をこらしてみせる。そして、当然に裏切られる。戦後の話なので、学校も行政も彼女を助けない。他人はただ、「私にはどうすることもできないの」と言う顔をして、平気で顔をそらす。


 結局、その時彼女を救ったのは、彼女自身にほかならなかった。正義の味方も王子様も現れることなく、就職してお金を貯め、家を遁走するといったかたちだ。
 彼女の幼少期の幸福、そして人格の支柱だった実の父の遺骨探しは、そのまま彼女の過去探しだった。捜索は難航するが、そのおかげで彼女は高校生の娘に自分の過去と弱さを告白する。虐待されていた娘とは長らく、本当の意味で愛情の通い合う家族だった。しかしここではじめて、主人公は虐待されていた当時得られなかった理解者としての娘を手に入れる。


 そして、娘に手を引かれながら辿り着いた旅の終着点で彼女は、「愛を乞うもの」から本当の意味で脱却する。それを切実かつ懸命な最後の一文が、わたしたちに訴える。
 なんて書いてあるかは、みなさんの目で確かめてほしい。

世界のどこにいても、見つけだしたい誰か【君の名は。感想】

君の名は。」を見た。
 見終わった後に、無性にどこかにいる誰かを探しに行きたくなった。

 主人公、三葉と瀧の二人のなれそめは、ある日互いが入れ替わってしまったことによる。それからは週に2、3週という結構なハイペースで入れ替わりが起こる。スマホやノートや身体にメッセージを書き込み、行動に齟齬が起きないようやりとりをする。


 初見のとき、決して直接話すでも会うでもない二人が惹かれ合ったのかが腑に落ちなかった。しかし、文通(?)でのコミュニケーションとともに、自身の身体に残る三葉(瀧)の名残を感じたのかもしれない。考えてみれば、彼(彼女)が食べたモノ、したことが今日の自分の身体に反映されているというのは、とてつもない体験だ。
 

そんな二人の入れ替わりも、唐突に終わりを迎える。そして瀧は、ついに生身の三葉に会いに行く決心をする。
 

 そこで初めて立ちはだかるのは、時間と死という、乗り越えられない障壁の厚さだ。
 

 現代において、物理的な距離は問題にならない。ただ、この二つだけは未だに人間には克服できないし、してもいけないのかも知れない。
 ただこの物語でははじめから丹念に散りばめられていたSF的であり神話的でもある伏線によって、瀧と三葉はこれを超える。恋愛物としてこの作品は傑作だが、物語としてもよく出来ている。王子様のキスもヒーローもいない世界で、ただの高校生でしかない二人が互いと街を救うためだけに、傷つき、裏切られながら奔走する。だから、私たちはこんなにも感動するのかもしれない。
 

一目惚れの際よく、「前世で縁があったんだ」なんて表現が使われる。

それと同じように、「覚えていないいつかで、身体が入れ替わっていたのかも」なんて言葉がつかわれるようになるかも知れない。

 

映画館を出る時、「私もイケメンと入れ替わりたい!」と叫ぶ女子高生を見て、そう思った。

あの日、どこかであった物語【シン・ゴジラ感想】

今さらながら、シン・ゴジラの感想を書く。


各所で絶賛されているとおり、垣根なしに面白かった。開始すぐからゴジラが覚醒、それからカルピスの原液を樽で飲みんさい飲みんさいと言われるような濃厚な映像体験が私たちを襲う。伸ばそうと思えば、二時間映画三本立てにだって出来そうな内容が、この2時間は詰め込まれている。

でも、こんな作りになったのは自然なことだ。リアルよりリアルな現実を、あの3月11日に私たちは見た。あの震災に負けない虚構を描こうとするなら、過剰すぎるくらいの過剰が必要だ。それをやりきった庵野監督に、拍手を送りたい。

 

まず、この映画は橋が破壊されるところからはじまる。物語作りにおける手法で言うと、初っ端にショッキングなシーンを持ってくる「平手打ち型」だ。

でも、ここではそんな型紙にはめては語るまい。災害は、いつだって何の前触れもなしに起こる。それだけのことだ。それが痛いほど、私たち日本人にはわかる。

そして、場面は首相官邸に移る。主役の矢口を皮切りに、怒涛のお偉いオッサンラッシュ。怒涛のようにオッサンと名前のテロップがでてくるが、そのあまりの早さに逆に「ああ、これ別に名前とか覚えなくていいんだあ」という安心感すら覚える。


橋の崩落に、「でも死者は出てないんだろ」と面倒臭そうな総理大臣。会議会議会議と進めるうちに、原因がまさかの巨大不明生物と判明。困惑するうちに、その生物はとうとうグロテスクな姿を晒して日本上陸。

しかしオッサン、ここで頑張る。すぐに自衛隊を配備して巨大不明生物を排除にかかる。

ここで私たちは、たぶん日本人にしかわからない奇妙で複雑な喜びを感じる。いつかの阪神地震とはちがって、今回はちゃんと自衛隊を動かしてくれる。私たちのために、身体をはってくれる人がいる。それがどんなにありがたく、心強いことか。

 

もちろん、あの日と同じに自衛隊がすべて解決してくれるわけではない。どころか、この映画ではまったく歯が立たずに撤退する。

 

すると、やっぱりあの国が出てくる。頼んでもいないのに、市民や総理までもが避難をしていない中、東京のど真ん中で地中貫通爆弾なんて物騒なものをぶっこんでくれる。

それも巨大不明生物には効かず、東京の大部分は壊滅。

ついに、連合国軍は日本に三個目の核爆弾を落とすことを決断する。

これに待ったをかけるのが我らが主人公、矢口である。

危険を承知で巨大不明生物に近づき、血液凝固剤を口から注いで凍結してしまおうというのだ。

ピタゴラスイッチなみに多くの段取りと準備が必要な綱渡りに、日本の命運が託される。

そして、被爆し、犠牲を出しながらもその綱渡りに成功する。

この映画は、しっぽからなにかを生もうとしているところで凝固された巨大不明生物のカットで終わっている。

「ちょ待てよ」と言いたくなるラストを持ってくるあたり、やっぱりエヴァの監督だなあ、と思う。

この映画に、愛する恋人を心配する綺麗な彼女はいなかった。
死んだ家族を悼んで、おいおいと泣く人間もいなかった。

たぶん、単純に必要がなかったのだと思う。そんな人間は、あの日、現実に、またはテレビを通して私たちに中に棲みついている。

あの日から日本人が否応なしに紡いできた、共通のコンテクストの強固さがあるからこそ、ばっさりと省略が可能だったのだ。


見終わったあとに、ある番組を思い出した。


少し前に、一時期流行ったマイケル・サンデルNHKで日本の著名人と議論する番組があった。
テーマは徴兵制の是非だった。

今、日本を含め多くの国で軍体は志願制をとっている。しかし、この軍にいる兵士は本当に軍人になることを志願しているのか? 実際国で軍隊に行っている人の多くは、経済的に恵まれない境遇にある。

そもそも、そもそもだ。もし戦争が起こった場合、国および国民みんなの一大事への対応を、彼らだけに押しつけていいのか? 同じ国民である異常、国民皆が身体を張って平等に闘うべきじゃないのか? そんな議論が起こった。

そこで、ジャパネット高田の高田社長はこう言った。

「なにも戦争なんてもしもを引き合いに出さなくても、今この日本でも同じことは起こっているんじゃないかと思うんです。福島の事故は、国民が一丸となって立ち向かうべき今なお続く日本の一大事です。なのに、私たちは、いま未だに収束しない福島原発の除染作業を、金にものを言わせて作業員に押しつけていることになりませんか」


この物語のあとも、あの増殖しかけたゴジラを凍結させ続けていくために、きっとこれからも被爆しながら凝固剤を注ぐ人たちがいるのだろう。

そしてそんな人々は、今、この日本にもいる。

この映画に、ヒーローはいなかった。

でも、国を見捨てず放射能に身を晒しながら踏ん張る人がいた。

きっとこの現実と同じように。

なのに、あれから五年が過ぎ、東京五輪の熱狂でかき消されそうな存在がいる。


そんな都合のいい、あるいは切り捨てが早いところも含めて、日本を見捨てず、私たちはやっていくしかない。

島国根性のしみついた日本人が、ユダヤの民やクルド人のように武器を持って土地を奪いにいけるともとても思われない。

そんな諦観めいた、でも一周回っていっそ前向きな決意を持たせてくれる映画だった。

 

マイインターン【映画感想】

 

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 綺麗なハンカチを持って、会社に行きたくなる映画だった。


 退職し、妻に先立たれた七十歳のベンは、有り余る時間をヨガや旅行、読書に費やす日々を過ごしていた。そんな日々に空しさを覚える中、スーパーでシニアインターン募集のチラシ

を手に入れる。募集先は、たった一年半で会社を二百四十人規模にしたアパレル通販会社。パソコンの電源の入れ方すら分からないベンが、多忙を極める若き女社長の側で奮闘することとなる。


 まず、この映画の主役はロバート・デ・ニーロ演ずるベンだが、物語のスポットが当たっているのは、主にアンハサウェイ演じるジュールズだ。タイトルはドラえもんだが、主人公はのび太といったようなものだ。
 

一年半前、ジュールズは自宅の台所で通販サイトを始めた。すべての製品を自分が着るというコンセプトが受け、会社は急成長。現代らしいネット発の成功者だ。
 彼女は社長だが、一方で可愛らし愛すべき女性でもある。家に帰れば主夫である夫と娘を愛する母親であるし、説教をする実の母親にこっそり悪態もつくひとりの人間である。そして

自分のいびきがうるさいのを気にしている。忙殺される社員とジュールズ自身のために外部からCEOを迎えることを提案された時は、泣きながら嫌だと言う。彼女は仕事と会社を愛しているのだ。社長ながら自ら工場に赴き、丁寧に従業員に梱包作業を教えるシーンもある。


 一方ベンは初日からうきうきと、目覚ましが鳴る前に起き、スーツをかっちり着込んで四十年ものの鞄を持って出社する。鬱々と平日の朝を過ご私たちす大半の人間とは、一線を画した存在だ。彼は金銭のためでも、社会的立場のためでも無い。ただ自分が社会に参加出来ることが、働くことそのものが、喜びなのだ。


 はじめは「高齢者が苦手」なジュールズからは何の仕事も与えられず、放置される、だがここで腐らず、「行動あるのみ」なベン。雑用を進んで手伝い、facebookデビューも果たし、

徐々にパソコンも使いこなしていく。時には、孫のような年齢の同僚から恋愛相談を受けるなどして、信頼を勝ち得ていく。


 そしてひょんなことから、ベンはジュールズの運転手を任されることになる。そして順調にベンはジュールズの仕事面だけでは無く、私生活にまで溶け込んでいく。CEO候補との面接、夫の浮気問題で疲弊するジュールズのよき友、よきパートナーとなる。印象的なのは、オフィスの真ん中で物が散乱しているテーブルをベンがすっかり片づけてしまったことだ。これにジュールズはすっかり感激してしまう。なんでもかんでも起きっぱなしにして、仕事効率を下げてしまっているには刺さる話だろう。


 唯一温厚なベンがジュールズに苦言を呈したシーンがある。飛行機でパソコンと格闘するジュールズに、せっかくだからファーストクラスの旅を楽しみたいと言うのだ。目の前の相手を構わず、電子機器との会話に耽る現代人にありがちな行為だ。余談だが、ニューヨークでは、各スマートフォンを机の真ん中に重ねて、はじめに手に取ってしまった人が料理の代金を支払わされるというゲームが流行っているらしい。


 「仕事」には「金を貰うために致し方なくやる苦行」という意味がつきまとう。同じ賃金ならば、労働時間は少なければ少ないほどいい。
 しかしジュールズとベンは、心の底から自身の仕事を愛している。困難にあっても、根底には社会に参加出来る喜び、仲間と分かち会える喜びにあふれている。


 皆が皆このようなモチベーションで仕事を出来る、というのは綺麗事だろう。
 しかしせめて、自身の仕事が誰かに某かを与えている、という喜びを感じられる一瞬があるといい。自らが発送したドレスを着て微笑む客の写真を見たジュールズの笑顔が、この映画の核を物語っている。


 もちろん、出勤の際にはポケットにハンカチを忘れずに。 

【映画】アーロと少年

 観客を千尋の谷ならぬ「いたたまれなさ」の底に突き落とす映画だった。


 主人公である恐竜の子アーロが生きているのは、もし1600万年前隕石が地球に落ちず恐竜が繁栄を続けていたらというパラレルワールドである。


 そこで恐竜は人間に成り代わるかのように言語を操り、農耕をし、家畜を飼って暮らす。動物を擬人化するのはアニメやマンガでよくある手法だ。しかしこの映画では進化の過程で恐竜が人間よろしく言語や文明を築いていったなら、という現実にあり得たかもしれないifの世界を描いている。


 対して、この世界の人間は、映画を見る限り狼のように吠えるばかりで言語を獲得しているようには見えない。ただ、後にアーロの相棒になる人間の子、スポットが棒を家族、砂に描いた丸を家に見立てた象徴を理解したところから、抽象化の能力はありそうだ。じきに彼らも言語を獲得し、現代の人間につながる進化をしていくことだろう。


 物語は兄弟の中でも身体が小さく気の弱い恐竜の子アーロを父親が鼓舞するところから展開する。アーロは父親に命令されたとおり、農作物を盗む少年スポットを捕らえようとするが失敗。激昂した父親はアーロを連れて過酷な自然のなかスポットを追う。が、そこでニ体は氾濫した川の濁流に襲われる。
 そして父親は「アーロを助けて」「アーロの目の前で」「アーロの眼を見つめながら」濁流に呑まれ、絶命する。


 テレビで多くの津波映像を見た後にこのシーンを突きつけられるのは、正直辛いものがあった。


 実際この映画で描かれる自然は、空恐ろしく得体が知れない。
 アニメにおいて現実にあるものを描くとき、私たちは多々それが持つある特徴を誇張、デフォルメする。それはたとえば極端に眼の大きい女の子であったり、装飾過剰な武器や露出過剰な防具になったりする。


 この映画でデフォルメされているのは、「自然」である。そこで抽出される要素はそれが持つ「残酷さ」と「美しさ」である。この極端な両要素を、この映画は過剰なまでに発達したCG技術を駆使して時には父を呑み込む濁流で、時には美しい蛍群で、グロテスクな虫で、嵐で、鳥の群で、私たちに押しつける。それが、大人子供問わず不安にさせる。


 だが、この理不尽さこそが、文明人になった私たちが忘れかけているものではないだろうか。奇しくも21世紀の超絶クオリティのCGアニメーションによって、今私たちは祖先たる原始人の畏怖を再体験しているというと言い過ぎだろうか。


 そういう意味で、この映画はリアルよりリアルだ。文明でしつらえた安全と言う名の幻想を、アニメという別種の幻想がはいでいく。


 最後に。この映画は、アーロが恐竜の家族のもとに、スポットは人間の家族に受け入れられて終わる。ふたりは、幾多の苦難を越え、助け合い、友情を築きながらも最後には別れることを選んだ。


 繰り返しになるが、この映画は恐竜が絶滅をしないまま知性を手に入れたifの世界の話だ。このままこの世界の歴史はどんな変遷を辿るのか想像してみて欲しい。


 高確率で、人間と恐竜の殺し合いが発生するのではないだろうか。肉体的にも知性の面でも先んじている恐竜が人間を皆殺しにして終わりか、人間の文明が急な成長曲線を描き、恐竜を絶滅させるか。どちらかがどちらかを家畜か奴隷にする未来もあるかもしれない。とにかく、手に手を取り合って仲良くとはいかないこと容易に想像できる。


 そういう意味で二人の別離もまた、自然の残酷な面の一例として描かれたのかも知れない。

 

 だが、二人の前途は、互いに出会うことで確かに変わった。


 ピクサー作品としてはあまり話題にならない映画だが、どうか大スクリーンで楽しんで欲しい。
 

キャロル【映画感想】

 私たちを恋に陥れてくれる、なんとも美しい映画だった。
 見終わった後に、妙な高揚感とセンチメンタルを感じてしまう。これぞまさに恋愛映画だ。


 舞台は1950年代のニューヨーク。百貨店で働く可愛らしい女の子テレーズは、客であるブロンド美女、キャロルに出会う。ここでキャロルは、テレーズとまた会う口実のためあえて手袋を売場に忘れる。

 これは古典的ではあるが、相手もまた自分に少なからず興味を持っているという確信がなければ出来ない傲慢な行為である。この自信家で傲慢なところもまた彼女の魅力だ。自身の美しさをよくよく知っている女性だ。
 

 狙いどおりテレーズと近づきになったキャロルは、カメラマン志望のテレーズにカメラ一式をプレゼントする。この時の、キャロルのカメラが入ったトランクを脚で滑らせるハイクラスの人間が間違ってもしないような仕草が言いようもなく魅力的だ。この時キャロルはちょうど、旦那と円満に離婚しようと奮闘していた。


 ところでこの映画では、キャロルの夫しかり、テレーズの彼氏しかり、男性は女性同士で想い合ったキャロルとテレーズにはまったく無理解で障壁になる存在として描かれている。しかしそれは仕方ない。二人とも、同性愛が精神疾患扱いだった当時のアメリカにおける男性としては真っ当な存在なのだ。ことにキャロルの夫は、連れ添って子までなした妻が同性愛者で、この十年間自分の側でただ耐えてきただけだという事実を突きつけられ苦悶している。彼がキャロルにやり直そうと迫るシーンは本当にもの悲しい。彼はキャロルが憎いわけでもなく、きっと格別にホモファビアなわけでもない。ただ、愛する妻と娘とともに、幸福な家庭を築いていきたかっただけなのだ。
 

 なのにキャロルは、新たに見つけた可愛い恋人候補テレーズを家に引き込む。激昂した夫は、共同で持つはずだった娘の親権を取り上げようとする。途方にくれたキャロルは、テレーズにともに旅に出ないかと持ちかける。いかにも思慮浅い提案に思えるが、娘を取り上げられ悲嘆にくれる彼女はいや美しい。当然テレーズは快諾、トランクに荷物を詰め込み、二人車に乗り込んでただ道を行く。時間制限ありの刹那的な逃避行だ。


 途中プレゼント交換をしたり、モーテルで化粧品や香水を試しあったりして二人は幸福に過ごす。そして新年の日、ウォータールーのホテルで、キャロルはテレーズの前で自身のローブの紐をほどく。ここでようやく、彼女らは体を重ねるのだ。


 しかし、この行為を夫が雇った探偵に嗅ぎつかれてしまう。二人の愛はどんなクライマックスを迎えるのか。それは劇場かDVDで確認して欲しい。ラストのキャロルの表情が、全てを語っている。
 

きっと同性愛者に限らず、マイノリティが個を通して生きるにはリスクがつきものなのだ。そして、この世に生きる私たちは皆何らかにおいて必ずマイノリティだ。
 

 1950年代の女性ながら、最後は自立し、職業を持つキャロルやテレーズの生き方は、そんな私たちに力をくれる。


 キャロルが言うように、「自分らしく生きれなくてはこの世は地獄」なのだ。

 

臆病者のための株入門

 

臆病者のための株入門 (文春新書)

臆病者のための株入門 (文春新書)

 

 株というと、なにやらかっちりネクタイを締めたサラリーマンが黒い画面にむかって難しい顔をしているか、はたまた一晩で全資産を溶かして人生終了した! というイメージがまず思い浮かぶ。
要するに、私のようなエリートでもギャンブラー気質ではない人間が近づくなかれ、ということだ。
では何故、この本を手に取ったか。答えは単純である。私が預けている普通預金の金利は、何と年0.020%。たとえ一千万を預けていても、年二千円しか利息がつかない。ちょっとズボラなひとなら、引き出し手数料で年間このくらい使ってるんじゃないだろうか。
まさか、資産を年々倍にしていきたいとは思わない。(倍になったところで知れているが……)ただ、もう少し利益があがる資産運用方法はないだろうか。
そう思ったのだ。
この本は、上記のとおりの金融オンチな私にも、わかりやすく株や各種資産運用について教えてくれた。詳しくは読んでもらうとして、結論を言うと、私には一日のほとんどをチャート表を胃を荒しながら見て暮らすのは無理ということだ。才能がないせいもある。将来性のある会社を研究して見つける努力もしたくない。比較的安全な運用方法も書いてあるが、それが今でも通じるかは要学習。
ただ、金融の世界には少し心を惹かれるものがあった。財産が増やせるからではない。
これは、大人が作った究極のファンタジーだからだ。世界のすみずみまで探索をし、あらゆる手段で財にしつくされ焦土と化しかけている現実を捨てて逃げ込んだ仮想空間。ネット上で持っているものが、ただの幻想だと知らないふりをしている人たちでなる究極に象徴化された世界。資本主義の、最後の拠り所。
とにかく、参加するかは置いといて、造詣を深めたくなってはきた。人間みんなが参加せざるを得ない、お金ゲームその渦中について。
深淵を覗き込むとき、深淵もまた……とは、ならないようにしたいものだが。