憎しみと赦しのどちらを選ぶか。それがその人の人生の物語となる    「シャンタラム」 G・D・ロバート 著 田中俊樹 訳

 

シャンタラム〈上〉 (新潮文庫)

シャンタラム〈上〉 (新潮文庫)

 

 

 はじめの数行で、この本は私にとってかけがえのない一冊になるということがわかった。 
 読み終えて、その直感は間違っていなかったことがわかった。
 こんな物語が語りかけてくれるから、私は今日も息が出来る。 
 そう、感謝したくなった。

 物語は、このパラグラフから始まる。

 「愛について、運命について、自分たちが決める選択について、私は長い時間をかけ、世界の大半を見て、今自分が知っていることを学んだ、しかし、その核となるものが心の芽生えたのはまさに一瞬の出来事だった。壁に鎖でつながれ、拷問を受けているさなかのことだ。叫び声をあげているこころのどこかで、どういうわけか私は悟ったのだ。今の自分は手足足枷をされ、血を流している無力な男にちがいないが、それでもなお自由なのだと。拷問をしている男を憎む自由も、その男を赦す自由も自分にはあるのだと。どうでもいいようなことに聞こえるかもしれない。それはわかっている。しかし、鎖に噛まれ、痛さにひるむということしか許されない中では、その自由が可能性に満ちた宇宙となる。そこで憎しみと赦しのどちらを選ぶか。それがその人の人生の物語となる」。

 この文章を読んで少しでも思うところがあれば、今すぐパソコンなりスマホなりを放り出して本屋に行って欲しい。そして、主人公リンとともにボンベイから始まる旅に出発して欲しい。

 この物語は、まさに憎しみと愛それぞれを選んだ人々が奏でる物語である。

 主人公は、ヘロイン欲しさに銀行強盗をし、脱獄してボンベイに逃亡してきた現代のどうしようもなく弱い人間だ。
 彼はリンと名乗り、ボンベイマフィアのボスに見いだされ、スラムで闇医者として暮らすようになる。その後無実の罪で過酷なインドの刑務所に押し込まれ、出所後はマフィアの一員としてパスポートの偽造などに携わる。そしてボスとともにアフガニスタンに武器を輸送し、地獄を見ることとなる。

 あらすじだけを見ても波瀾万丈で、なんともジェットコースター的な物語だ。
 しかし、この物語の主題は、ストーリーだけでは見出し得ない。
 それはまさに、ここに書ききれないほど大勢の登場人物の中の愛と憎しみにある。
 
 ここでことさらに強調して描かれるのは、スラムの人々が持ち寄る愛だ。
 彼らは貧困に喘ぎながら、長を慕い統制と思いやりをもって生きている。長時間身を粉にして働き、一日に一時間しか水が出ない水道を争うことなく共有し、暴力に遭う村の女を助けその夫には相応しい罰を与える。
 主人公はこのスラムをこう表現した。

 「今、私の回りにあるのは、互いに無条件に助け合い、絶対的に助け合う心だった。プラバカルの村で経験したよりさらに強い緊迫した結束だった。そして、それは私がスラムをあとにしたときに、より快適でより豊かな世界へと移ったときにに失ったものだった。それはスラムに住む以前は、母の愛という高い山脈に囲まれた場所でしか見いだすことのできないものだった。それでも、一度知ってしまったらーーぼろ小屋の立ち並ぶこの悲惨な、それでいて崇高な場所で、人々と一緒に過ごす日々の中で一度知ってしまったらーー永遠に求めつづけずにはいられないものだった」。

 今、私たちの世界では、核家族化が進んで久しい。
 ここでは、スラムとは違い断絶された個室の中で生活や子育てが行われる。
 その「快適で豊か」な世界で、しかし子どもは祖父母も近所のおじさんおばさんも無しに、母ひとりの愛にすがるしかない貧しさにさらされてはいないだろうか。
 運悪く、何の罪も無く、本当にただただ運が悪かっただけで、愛を与えられない母のもとに生まれ置かれた子どもはどうすればいいのだろう。
 灼熱の車の中で、食べ物もないアパートメントという牢獄で、あるいは暴力にさらされもだえ苦しんで死にゆくほかなかったのではないか。
 私たちが生きている世界は、なにか人間を人間たらしめる核となる部分を危機に晒して出来た、ひどく脆い王国なのではないか。
 そもそも子ども以前に、ひとりの人間が持つ愛と憎しみの受け皿は、母ひとりの愛で満たされるほど矮小では無いのかも知れないのに。

 愛その意味の無限回廊に迷い込むヒロインは、ある種で私たちの生き写しだ。
 彼女のノートには、こんな詩が書き記されている。

 「わたしが生きるのも、私が死ぬのも
  この愛のためであることを。」 

 
 まさに、この物語は愛ちそれに追随する赦しを求める人間への賛歌にちがいない。

 最後に、私は原文でこの物語を読んだことは無いが、田口俊樹氏の翻訳が素晴らしいことは最初に記したパラグラフを読んでもらうだけでわかると思う。
 この長い話をまったくつっかえずに読めるのは、彼の豊富な語彙からなる秀逸かつ美しい味がする文章のおかげでもあった。
 彼に訳してもらえたこの物語と、何より私たち日本の読者は幸せだ。
 そんなこともまた念頭に起きながら、この物語にとりかかって貰いたい。
 

えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた 「檸檬」 梶井基次郎

 

檸檬 (280円文庫)

檸檬 (280円文庫)

 

 

とにかく、暗いくらい心の深淵に潜ってしまいたい時がある。
生きている素晴らしさ、恋の楽しさ、家族の絆、それらが今の私にはまるで鬱患者にとっての「頑張れ」と同じくらいの禁句となりうる。
 

こんな時は、そう、まさしく「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけて」いるときには、ふさわしい作品があるはずだ。


梶井基次郎は、そんな作品を残してくれた作家だ。
読者は、幸福にも一人で不幸にならずにすむ。 

主人公は金も、恐らくさしたる身分もない男(多分、まあ、どっちでもいい)だ。
彼は、どんな音楽も詩も楽しめなくなり、あてもなく京都をぶらぶらとする。彼は不幸だった。
 金閣寺伏見稲荷などに行ったりはしない。彼が求めるのは、みずぼらしくて美しいもの。
 といっても、死にかけの雀を介抱するでも無く、うつくしい娼婦と恋に落ちるでも無い。
 ただ彼は、八百屋でレモンをひとつ買う。そして、そのレモンの冷たさと重さと形、ただ、それだけですっかり幸福になる。
 

 結局人間の幸、不幸などその刹那の気分の上下にすぎないのだ。そう思って、読者は気が楽になる。
 

そして男は丸善に入り、きっとさしたる理由も無くまた不幸になる。
棚から出した美術本を重ね、てっぺんに、何を思ったか(多分本人にもわかっていないのだろう)そのレモンをおく。
最後、あのレモンが爆弾となって丸善を粉葉みじんにしたら、という想像をして、男は愉快になる。
彼は、また、幸福になった。
読者も、また、すこし幸福になって本を閉じる。


深淵の底で、少し息がつけたような気分になる。

人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです  「沈黙」 遠藤周作

 

沈黙 (新潮文庫)

沈黙 (新潮文庫)

 

 

 

 この「沈黙」の要は、神やイエスの尊さでも、日本人が行った非道の暴露でもない。タイトルそのもの、すばり「神の沈黙」である。少なくとも私はそう思っている。
 

この「神の沈黙」に苦しんだことの無い人は、大分に恵まれた人だと言えるだろう。

卑近な例で言うと、特急列車に乗っている最中に腹を下したとき。入試や入社の最終試験の時。心うちですがるように「神様」と唱えたことは無いだろうか。
あるいはもっと切実に、病魔が自分や大切な人に襲いかかったとき。絶え間ない孤独に晒されているとき。虐待に遭う幼子の存在を知ったとき。

「神様助けてください」そう思わずにいられる人間がどれだけいるか。

 

そして、たいていその願いは空しく終わる。

死は必ず訪れるし、虐待された子は、人生の楽しみも悦びもろくに知らず殺される。

神は、こんな無力な私に、罪ひとつないあの子に、ついに手を差し伸べられなかった。
 
そんな私たちの、慟哭の代弁者が、主人公ロドリゴである。
 
物語は、敬虔な神父でありロドリゴの恩師であるフェレイラが、幕府の責め苦に耐えかねて背教した、という便りから始まる。
ロドリゴは、その真偽を確かめるため、また迫害にあえぐ日本人キリシタンのため、危険を省みず江戸初期の日本、長崎に渡る。

ロドリゴが村で会った日本人キリシタンは、貧困と重税、飢えに苦しみながらも隠れてキリスト教に救いを求めていた。彼らはロドリゴの到来に喜び、匿うがキチジローというかつてはキリシタンであった臆病な男によってまとめて役人に売り渡されてしまう。
多くのキリシタンを葬り、フェレイラを背教させた責め苦が、彼らにも行われる。
 
 作中で信徒が華々しくもなく、また救いも奇跡も復活も無く、拷問されてはあっけなく殺されていくのを見て、ロドリゴもやはり訴える。「主よ、あなたは今こそ沈黙を破るべきだ。もう黙っていてはいけぬ。あなたが正であり、善きもの、愛の存在であることを証明し、貴方が厳としていることを、この地上と人間たちに明示するためにも何かいわなくてはいけない」。

 

それでも、神は沈黙を保ち続ける。
 

 

結局、主人公は「自分の生涯でもっとも美しいと思ってきたもの、もっとも聖らかだと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたもの」の顔を踏みつける。
そこには救いも奇跡も復活も無い。ただ、淡々とした現実だけがあった。そしてその現実は、今この二十一世紀まで続いている。

 

遠藤周作文学館にある石碑には、こんな言葉が彫られている。
「人間がこんなに哀しいのに 主よ 海があまりに碧いのです」

しかし、この期に及んでもロドリゴは神を失わない。
それは、新潮文庫版の表紙と、またラストの彼の独白に表れている。
 
この本は、私たちが思う神の輪郭その一線を描く手伝いをしてくれる。
あなたは自分がどんな神を中に持っているか、または持っていないか。

普段神についてなど考えないという大方の日本人にこそ、読んでもらいたい本だ。