えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけていた 「檸檬」 梶井基次郎
とにかく、暗いくらい心の深淵に潜ってしまいたい時がある。
生きている素晴らしさ、恋の楽しさ、家族の絆、それらが今の私にはまるで鬱患者にとっての「頑張れ」と同じくらいの禁句となりうる。
こんな時は、そう、まさしく「えたいの知れない不吉な塊が私の心を始終圧えつけて」いるときには、ふさわしい作品があるはずだ。
梶井基次郎は、そんな作品を残してくれた作家だ。
読者は、幸福にも一人で不幸にならずにすむ。
主人公は金も、恐らくさしたる身分もない男(多分、まあ、どっちでもいい)だ。
彼は、どんな音楽も詩も楽しめなくなり、あてもなく京都をぶらぶらとする。彼は不幸だった。
金閣寺や伏見稲荷などに行ったりはしない。彼が求めるのは、みずぼらしくて美しいもの。
といっても、死にかけの雀を介抱するでも無く、うつくしい娼婦と恋に落ちるでも無い。
ただ彼は、八百屋でレモンをひとつ買う。そして、そのレモンの冷たさと重さと形、ただ、それだけですっかり幸福になる。
結局人間の幸、不幸などその刹那の気分の上下にすぎないのだ。そう思って、読者は気が楽になる。
そして男は丸善に入り、きっとさしたる理由も無くまた不幸になる。
棚から出した美術本を重ね、てっぺんに、何を思ったか(多分本人にもわかっていないのだろう)そのレモンをおく。
最後、あのレモンが爆弾となって丸善を粉葉みじんにしたら、という想像をして、男は愉快になる。
彼は、また、幸福になった。
読者も、また、すこし幸福になって本を閉じる。
深淵の底で、少し息がつけたような気分になる。